米アマゾンでブック売上ナンバー1! 

ここで経済ネタを論じることはあまりないとは思うが、少し気になった情報を見つけたので、ここで皆さんにご紹介したい。ニューヨークタイムズ紙で発売直後に話題のベストセラーとなり、アマゾンでも経済本として珍しく売上ナンバー1を記録した上に、現在売り切れで入手できない本をご存知だろうか? フランスの経済学者トマ・ピケティによる『CAPITAL IN THE 21st CENTURY』である。題を訳すと、ずばり『21世紀における資産』。ああ、経済系の難しい話かとウンザリされた方、数分だけ耳を貸して下さい。常識から考えると、それほど難しい話でもないのです。


 

筆者のトマ・ピケティは、格差研究のパイオニアとして、フランスで数々の論文や著書を残している人物。ではなぜ彼の新書が、アメリカのアマゾンで一ヶ月間もナンバー1を記録するほど注目されているのか? それは彼が長年展開してきた格差社会の研究結果が、ショッキングに理論立てて綴られていることにあるらしい。

過去30年間で世界的に貧富の差が拡大し、アメリカでは、富裕層のわずか1%が全国民所得シェアの約20%を占めており、その傾向がイギリス、中国、インド、日本にも広がりつつあるというのは、既に様々な研究や論文で討論されている周知の事実である。さらに財産所有のシェアは、アメリカでは富裕層10%が全国民の70%、中国では富裕層10%が全国民の60%という結果もはじき出されている。ちなみに日本では富裕層10%が全国民財産の40%を所有している。

経済オンチの筆者にとっては、初めて見る驚くべき数字だ。感覚的に感じていても、数字で突きつけられると不思議な現実感がある。思わず納得してしまった。リーマンショックが根源となった世界恐慌や、富豪ビジネスマンや銀行による金融詐欺事件が続いた結果、<ウォール街占拠/Occupy Wall Street>が世界的な運動につながり、政府や既得権者への不信感が、いま世界中で広がっている。世界経済情勢にうとい筆者でも点と点を繋げることができる。

過去100年にさかのぼる膨大な税務データを基に展開される『21世紀における資産』で、ピケティはいままでの研究結果をさらに押し進めて理論を展開しているらしい。 財産や富は遺産として富裕層内で相続して継続される為、富裕層による所得と財産の独占的割合率の上昇は必至で、トップの牽引によって全体が底上げされるという論理は決定的な間違いである。さらに、そのような状況が進んでしまった先進国における資本主義は、平等の機会が保証されているはずの民主主義の公正さや正当性と矛盾した怪物になりかねないと警鐘を鳴らす。

ふむふむ。色んな知識のある経済学者は恐らく反論も批判もするだろうが、素人が聞いても全くの正論じゃないか、と思うのは筆者だけだろうか。アベノミクスという新しい造語を作りだし、政治と経済の関係性を全面に押し出した安倍政権の狙いは、日本が抱える巨額の負債を返済することは当然として、政治と金との関連を近年散々みせつけている富裕層の保護が背景にあってもおかしくないのではないだろうかと、妄想を膨らませてくれる情報だった。アマゾンで買えるようになったら、ぜひ読んでみよう。

 

ひかりのまち ロンドン

5年前にロンドンを訪れた時は初夏だった。滞在していたレナード・ホテルから目と鼻の先にある広大なハイドパークを何度も歩き回った。都会の真ん中なのに別世界にいるような錯覚を抱く寛大な緑を鮮明に憶えている。

初冬のハイドパーク。黄色に染まった木葉が、枝をむき出しにした木々にまだしがみついている。茶色に枯れた落葉が、風に吹かれて地面を転がるように追いかけてくる。初夏と比べるとすっかり様変わりしていたが、ハイドパークは相変わらず寛大で優しかった。


 

午後5時前後にすっかり日が暮れてしまうのと同時に、街には一斉に人が溢れ出す。ショッピングに繰り出す観光客に、帰路を急ぐ通勤者が加わって、ピカデリー・サーカスはごった返しになる。

午後7時半に友人アティラと会う約束をしていたテームズ川南岸の駅へと急ぐ。ロンドンの地下鉄はチューブという呼び名に相応しく、車内は狭苦しくて天井も低い。ショッピングバッグを抱えた初老の女性が目の前に座ると、ふと目が合う。儀礼的に微笑む女性。目が合えば他人でも微笑む文化にいることを思い出して、軽く微笑み返した。

10分前に到着すると、彼は駅の改札口ですでに待っていた。5年ほど経つので当然だが、一瞬見過ごすぐらいに少し老けて見えた。トルコ人の父とイギリス人の母のハーフのアティラは、留学先のアメリカの高校で、最初にできた友人だった。教師として赴任した母親と一緒にトルコから来ていて、お互いに留学生だった。もう20年前になる。1年だけ同じキャンパスで過ごした後、彼はイギリスへ留学して、それ以後、連絡も途絶えた時期もあったが、不思議なことに、まだこうやって連絡を取り合うときがある。お互いに落ち着くこともなく、放浪人生のようなものを歩んでいるからだろうか。

「南岸は来たことある? 川沿いを歩きながら、レストランを見つけようと思ってたんだ。」 前回10年ぶりに会った時にも一緒に南岸に来たことを知らせると、「そうだった? いつも南岸に連れてくるなんて、つまらない男だな。気をつけないと」とはにかむように笑うアティラ。彼は相変わらず結婚もせずに気ままなアパート暮らしを続けていた。

レストランに座って話し始めると、記憶が戻ってくるように、20年前から変わらない何に対してもオープンで寛容な性格が姿を現す。自分も当時は彼のそんな性格に魅かれていたのだろう。「退屈で無関心で感情がないんだ。よく言われる」と満面の笑みを浮かべて話す彼は、まったく変わらない。無駄に謙虚な彼を、外人なのに不思議だと勝手に思っていた当時を思い出す。日本人が考える日本人特有の謙虚さは、日本人の特許ではないと発見するのはもっと後だった。

食事の後、ロンドンで最も古いワインバーに連れて行ってくれた。ワイン貯蔵庫をそのまま作り替えた店内は、大きな木製のテーブルにおかれたロウソクで照らし出されていて、観光客と地元の客で賑わっている。話題は高校時代の知り合いの末路になる。ハゲて横に膨れ上がり、当時とは似ても似つかない姿になった人。いまでも変わらない人。知り合いの変貌ぶりが話題になるぐらいに、2人とも歳をくった証拠だろう。彼は高校が懐かしいようで、ロンドンでの同窓生の集まりにも出席したりしていた。 

真夜中が近づき、南岸の駅まで歩いて戻った。木曜の夜なのに街はまだ賑わっている。1日中歩き回って疲れていたが、ふと街の様子を観たいと思い、歩いてホテルまで戻ることにする。アティラとはまた会う約束をして別れた。「今度は日本で。」「ああ、そうだね。」

演劇街のピカデリー・サーカスを経由して、ショッピング街のオックスフォード・サーカスへ向かう。街中がすっかりクリスマスの装いになっていて、チューブ駅近辺は撮影が行われているのかと勘違いするぐらいに、イルミネーションが眩しい。


 

活気溢れるロンドンの街をみながら、マイケル・ウィンターボトム監督の『ひかりのまち』を思い出していた。普通の人々がそれぞれの人生の岐路で立ち止まり、思い悩むというなんでもない群像劇だったが、大好きな作品だった。ロンドンの普通の人々に向ける監督の眼差しが限りなく優しくて心地よく、とても感動的だった。

クリスマスのイルミネーションに照らし出された街を歩く人々は、いきいきと輝いていて、不思議なぐらいに誰もが個性的で、生命力に溢れているような感覚に陥った。5年ぶりのロンドンは限りなく優しく、まさにひかりに溢れた街だった。

 

The Crack-Up = 崩壊

「当然ながら、すべての人生は崩壊のプロセスである」という衝撃的な一文で始まる『The Crack-Up』は、『華麗なるギャッツビー』の再映画化や 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の映画化で近年話題になっているアメリカ文学を代表する作家 F・スコット・フィッツジェラルドによる、1936年にエスクワイア誌に連載された3つの独白的エッセイ集である。アルコール中毒と戦いながら、44歳の若さでこの世を去った作家が書いたこのエッセイは、4年後の死を予知した自己分裂の記録とも言える。


 

自らの才能の枯渇に苦しみ、文学に取り組むかわりに(20年の作家歴の中で長編小説は4つと未完作が1つ)、経済的な理由でたくさんの短編を雑誌に書き下ろした自分を、商業性に身を売ったと責めて悩み続けたフィツジェラルド。自分自身のモラルと精神が致命的な打撃を受けながらも、手遅れになるまで気付かなかったと繰り返す悔恨の念が、このエッセイにねちねちと書き綴られている。そんな文章は読みたくないと思われる方もいるかもしれない。しかしこの奇妙に美しい文章は、不思議に軽快な自虐的ユーモアに溢れていて、内容とのギャップが読者に強烈なインパクトを与える。

翻訳版の題名は「崩壊」。まさに崩壊であるのは間違いないのだが、少し原題と意味合いが違う。<Crack>とはひび割れるという意もあり、<Crack up>だと崩壊の意もあるが、突然大笑いするという意味でも使われる。音は英語でも重要な要素であるが、<The Crack-Up>のイメージは、<崩壊>という日本語の重苦しいイメージとはまた違ったものである。何かあっけらかんとした英題の軽快さと明瞭さが、邦題から受けるイメージよりも、このエッセイを遥かに魅力的なものにしている。

まさにこの英語的な軽快さと明瞭な表現が、フィッツジェラルド文学の魅力の一つかもしれない。著作の多くを翻訳した村上春樹も、『崩壊』は<フィッツジェラルド文学の散文の極致>として絶賛しており、フィッツジェラルド文学においての冒頭の書き出し部分のインパクトの強さを語っている。「当然ながら、すべての人生は崩壊のプロセスである」の一文で始まるエッセイもその一例であるが、確かにフィッツジェラルドの短編は、その魅力的な冒頭部分で引き込まれてしまうものが多い。自分のお気に入りの短編『Love In the Night』の冒頭部分を引用させてもらう。

「その言葉にヴァルは心躍らされた。その言葉は、黄金色に 輝く新鮮な4月の午後のように彼の心に流れ込み、何度も繰り返されたのだった:love in the night; love in the night.」

ストーリー自体は、17歳の青年が初めて恋に落ちるというだけの他愛ないものだが、その巧みな言葉遣いの隅々にわたり、思春期の普遍的なナイーブさ、きらめき、脆さ、すべてが凝縮されているような印象を受ける。そんな流麗な表現で一瞬のきらめきを綴った作者が、その表現力はそのままに、如何にして『The Crack Up』の自虐的なユーモアと陰惨なまでの絶望に至ったのか? 奔放ながらも情緒不安定に苦しんでいた妻ゼルダとの嵐のような結婚生活の破綻だったのか? フィッツジェラルドが最も輝いたと言われる1920年代(『Love In the Night』は1925年に書かれている)を代表するジャズエイジが崩壊し、第二次世界大戦に向かっていく1930年代の世界恐慌の中で陥った絶望だったのか? 自分勝手に想像しながら埋め合わせをして読めたのも、このエッセイのもう楽しみの一つであった。まだ『The Crack Up』を未体験の方はぜひ手にとってページをめくってみてください。


 

『天国の門』におけるエゴ vs. 情熱

 

「いままで観た中で一番好きな映画は?」

映画に携わっている人なら、よく聞かれる質問である。聞かれる度に、一本に絞るのはムリと言い訳をつけて、好きな監督なら‥‥と名前を挙げて質問をかわす。はっきりと答えたことは一度もない。「生涯のベスト10は?」と聞かれても、そこまで順序付けるのは不可能と言ってごまかす。でも無理矢理番付けした場合に、恐らくその中に入る作品の一つは、『ディア・ハンター』でアカデミー賞を受賞したばかりのマイケル・チミノ監督による1980年の問題作『天国の門』かもしれない。

公開当時、由緒ある製作会社ユナイテッド・アーティストを倒産へと追いやり、ハリウッド映画史上、最も酷い失敗作の一つとして名高い名誉を得てしまったこの作品は、19世紀末、アメリカのワイオミング州で、地主と移民達の間に起きたジョンソン郡戦争をベースにした3時間半に及ぶ壮大な叙事詩である。如何にしてこの作品が失敗作というレッテルを貼られてしまったかについては、当時のスタジオ重役によって書かれた『ファイナル・カット―『天国の門』製作の夢と悲惨』に詳しいので、興味のある方はそちらを読んでもらうことにして、ここではなぜこの作品が自分にとって無理矢理番付けした場合の生涯のベスト10に入る作品なのかをお話したい。


 

その理由は、ずばり『天国の門』が限りなく映画的な映画であるからにほかならない。映像で語るとは、まさにこの映画であると思う。詩情と感情を映像が語る時こそ、映画の可能性を信じることができる瞬間である。それを如実に現した場面の一つが、クリストファー・ウォーケン演じる殺し屋の登場場面だろう。草原にポツンと立つモクモクと白い煙があがる小屋。その周囲は白いシーツで囲まれている。カメラが白い煙を追うように動き、小屋を俯瞰で捉える。シーツの内側では牛が吊るされて、ロシア移民の男が手を血だらけにして肉をとりわけている。その側では、妻が幼い息子の手をひきながら、取り分けられた肉を台車に積み込んで、血と泥が入り交じった地面を這うようにして運んでいく。男はふと人の気配を感じて、白いシーツを見上げる。そこに映る人影。怯える男はナイフを持ち上げて、シーツ越しにロシア語で語りかける。応えない影からすっと長いライフルの銃口らしき影が伸びる。爆音と共にシーツに大きな穴が開き、ロシア人は腹を撃たれて泥の中に倒れる。小屋の中から泣き叫びながら走り寄る妻。傷穴から流れ出た夫のはらわたを掴んで身体に戻そうとするが、男はすでに死んでいる。ロシア語で泣き叫び、殺し屋を罵る妻。大きく開いたシーツの穴から、その一部始終をみて去っていく殺し屋。その背景にはワイオミングの風景が雄大に広がっている。語る映像を文章に直したとことで、そのインパクトを語ることは出来ないのだが、想像していただけるだろうか。後に説明される貧困のため牛盗みを繰り返す移民達の葛藤、同じロシア系移民であるにも関わらず牧場主に殺し屋として雇われた男の悲哀が、この場面ですでに明確に示唆されている。

もう一つ、シンプルながらも映像で語る見事な場面転換がある。冒頭40分近く続くハーヴァード大学の卒業式。永遠に続くような卒業ワルツは、永遠に続くように思われた若さと希望の象徴でもある。無邪気に戯れる主人公ジムとエリート仲間達は、アメリカの未来を疑うことなく理想を抱いて大学を巣立っていく。その直後、場面は20年後のワイオミングに切り替わる。大勢の貧しい移民達をこぼれんばかりに天井に乗せた列車が、煙をあげて平野を走り抜ける。がらんとした列車内の乗客は唯一ひとり。目を疑うほど年をとり、苦汁が皺になって刻まれたような姿に変貌したジムだ。保安官となって赴任したワイオミングのとある街に到着した彼は、貧しい移民が流れ込んで騒然となった様子を目の当たりにする。ヨーロッパ移民のお人好しの車掌から、ロシア系移民達へのリンチが絶え間ないことを知らされるジムの表情からは、ハーヴァード時代の夢と希望はひとかけらもみられない。一見なんでもない場面転換のようではあるが、20年の間に夢と希望に裏切られ、現実の壁にぶち当たった主人公の焦燥感が、繊細に表現された場面転換だ。


 

尋常な域を越えたディテールへのこだわりと、巨大に膨れ上がったスーパーエゴで、すっかり汚名をきせられてしまったマイケル・チミノ監督であったが、この作品が監督の限りない情熱に支えられているのは、鑑賞していただければ間違いなく伝わるはずだ。理想郷としてのアメリカ、その幻影と幻滅、その狭間で翻弄された数々の人生を描き出すことに、チミノ監督は並々ならぬ情熱を注いだ。そんな彼の情熱に、憎悪をむき出しにするスタッフもいれば、なんとしてでも護ろうとする信奉者もいた。「マイケルは共に仕事をするのは難しい人物でもあったが、彼との仕事以上に達成感を感じさせるものはなかった」と語るのは、撮影監督として数々の名作を手がけたヴィルモス・ジグモンド。移民達が平原を歩くシンプルなショットを撮るために、天候が変わるのを休憩なしで1日中ひたすら待ち続ける監督に、遂に我慢できなくなったカメラマンのジグモンドが「マイケル、そろそろランチにしよう。スタッフもみんな疲れ切っている」と切り出すと、チミノは「ランチ? これはランチなんかよりも遥かにビッグなんだぞ」と言い放ったというエピソードも残っている。

情熱とエゴは表裏一体。その微妙なバランスがエゴに傾きすぎた瞬間に、映画は輝きを失う。奇跡とも言える綱渡り的なバランスで、その情熱を映像として昇華させることができたのが『天国の門』ではないかと思う。情熱を限りなく純粋な形にすることができることほど、携わった人たちに達成感をもたらし、観るものにある種の感動を与えてくれるものはないだろう。そんな作品が、ハリウッド映画史上最も酷い失敗作かどうか、どう評価するかどうかはあなた次第。ぜひ 『天国の門』をスクリーンで体現してみて欲しい。シネマート新宿にて10月5日から5日間のみ、31年振りのリバイバル上映となる。

ロッテルダム映画祭日記5

今回参加させてもらっているロッテルダムラボのプロデューサーは、総勢70人程度だ。世界中あらゆる国々から参加しているのは以前も書いたが、レクチャーやワークショップだけでなく、朝食や昼食を共にしていると、段々彼らの経歴があきらかになってくる。若手プロデューサーという条件のはずだったが、意外と経験豊富なプロデューサーも何人かいるようだ。

イスラエルから参加しているエイタンは、カンヌで喝采を浴び、日本でも劇場公開されて話題になった『戦場でワルツを』の監督アリ・フォルマンの新作のプロデューサーで、今回はハリウッドスターをキャスティングしての作品になると語っていた。アメリカから参加しているアデルは、カンヌやサンダンスで上映された『The Myth of the American Sleepover』を、同じくアメリカ人のマットは、『ディパーテッド』などで女優として活躍中のヴェラ・ファーミガの初監督作『Higher Ground』をそれぞれプロデュースした経験があり、アイルランドから参加しているコナーは、大石圭原作で日本との共同企画をプロデュースしている。参加プロデューサーみんなが海外共同企画に興味があり、何か学ぼうとこのラボに参加している。

中でも仲良くなったのは、前回も紹介したフィンランドから参加しているマーク。カウリスマキ監督の新作『Le Havre』ではスタッフとして参加しているほか、本年度のフィンランドアカデミー賞にあたるJussi Awardでは、プロデュース作品『The Good Son』が『Le Havre』と並んで7部門にノミネートされている。彼の夢はヘルシンキでハンバーガーレストランを経営すること。そんな夢を実現させる第一歩として、凍り付いた真冬の湖の上でバーベキュー大会を開催したりしている。フェイスブックに応援ページも設立していて、今年中には本格的にオープンするらしい。翌日帰国予定だというので、一緒に夕食に出かけると、偶然入ったレストランは、地味だがアットホームな雰囲気のイタリア料理。美味しそうな匂いが漂う中、木製のテーブルと椅子が並んでいる。フィンランドと日本で共同企画を何か考えようと言うので、冗談半分に「ハンバーガーレストランを経営するフィンランド人の男達が、神戸牛を手に入れようとするが、変な外人と馬鹿にされて、日本人業者に騙されるストーリーは?」と投げてみると「バカバカしいと思えるぐらいの、いいアイディアだ」と真面目な応え。単なるフィンランド風の不思議なユーモアなのか、それともマジなのかはよくわからないが、夢のような話が広がっていくキャッチボールから生まれてくる映画は、きっと楽しい傑作になるだろう。そんなふうに感じれる素敵な夜だった。

フィンランドの凍り付いた海上でバーベキューを開催する不思議なフィンランド人プロデューサーのマーク



ロッテルダム映画祭日記4

本日のテーマはニューメディア。VODやネットを中心とした新しい映像配給の形や、欧米で話題のトランスメディアに焦点があてられたレクチャーが目白押しだ。

自身で監督した作品を、独自のサイトにアップロードして3億ものダウンロードヒットを記録、爆発的に誕生した映像ファイルシェアサイト<VODO>の創設者や、Itunesなどのオンラインサービスに映像を提供している<Under The Milky Way>の話を聞くと、まだ確固とした新しい配給方法への確信は感じられないものの、可能性は充分に感じさせるものがある。インターネットの世界は、業界人にとってもまだまだ未知数の世界のようだ。

その次はアメリカで話題のクラウドファンディングサイト<Kickstarter>の映画担当者のプレゼンだ。創立わずか2年で爆発的な成長を遂げたサイトで、いままで映画制作につぎ込まれた募金総数はなんと45億円。53万もの企画がアップされ、5000ほどの企画が目標額を達成している。日本でもクラウドファンディングが話題になっており、我が社ヴェスヴィアスも自主配給する完山京洪監督作品『seesaw』の配給宣伝費の一部をモーションギャラリーにて協力を募っている。クリエーターと観客を直接結びつけて、お互い交流をはかりながら、参加型のクリエイティブ興行を実現させるのが目的である。ここで注目されるのが、アメリカで人気を得たクラウドファンディングが、日本を含む海外で通用するかである。自発的に参加してコミュニケーションを啓発させるコンセプトが果たして日本でも浸透するのか? モーションギャラリーでは、イランを代表する世界的に有名なキアロスタミ監督が、日本で撮影中の企画の製作費一部をクラウドファンディングで集めて話題になった。

午後からは新しいメディアの形としてもてはやされているトランスメディアについての講義。簡単にまとめてしまうと、メディア企画をさまざまな形で展開させる宣伝戦略だ。日本流に例えると、スタジオ系の作品が、TV、ネット、本、イベント、展覧会など連動で宣伝されるのを指すと思われがちだが、欧米で話題になっているトランスメディアは、単なる戦略ではなく、あくまで企画内容に対する理解を深くすることが最終目的となっている。ヨーロッパのテレビ局が企画した旧ソ連の崩壊をテーマにした『Farewll Comrades』は、ドキュメンタリー映画だけでなく、ネットコミュニティーやイベントに参加すると、さらにテーマについて学べて理解を深めることができる仕組みになっている。

様々なレクチャーを聞いて、休憩やランチの間にラボ参加者のプロデューサーと意見を交換しながら交流を深めていく。夕方のカクテルのあとは、シンガポールから参加しているプロデューサーと、マレーシアから参加している女性監督2人で、中華料理店で夕食に出かける。アジア料理を食べてほっとする瞬間。いきなりハイピッチの銅鑼の音とともに春節を祝う中国獅子が登場。今日は旧正月だ。どうりで店内は中国人家族連れで満席。4人でいろいろ話しているうちに、共通の知り合いが何人もいることを発見。『世界は狭いね』と呟くシンガポールプロデューサーのひと言に相槌を打ちながら、夜は更けていく。<続く>

ロッテルダム映画祭日記3

ネットワーキングは朝食からはじまる。そもそも今回参加させてもらったロッテルダム・ラボは、映画祭の企画マーケットであるシネマートの連動イベント。企画を持ったプロデューサーが、配給、セールスエージェント、資金探しのために参加するのがシネマート。興味のある会社やプロデューサーにアポを入れて、朝から夕方まで3日間ぶっつづけでミーティングをこなす究極のネットワーキングだ。人気のある企画は1日15件ほど予約が入るという。そんな慌ただしい1日のスタートが、シネマート会場で催される朝食だ。ラボ参加のプロデューサー達も、シネマートと映画祭ゲストのみ招待される朝食、昼食、カクテル、パーティに参加して、ネットワーキングの場を拡げることができる。知名度とは反対に、比較的こじんまりとした映画祭なので、去年参加したベルリン映画祭よりもはるかに人に会いやすい。いざ勇んで会場に行くと、コーヒーをゲットするにも長い列ができている。企画の話しをしている人達に挟まれながら、つくづくプロデューサーとは大変な仕事だと感じる。ふと見ると、長い列に飽きれた様子の友人ルカが目に入る。一緒に順番を待つようにジェスチャーすると笑顔で近寄って来る。「なんだいこの列は?朝食でさえも競争かい?」冗談にならない冗談である。

ラボ参加プロデューサーは、1日中ワークショップやレクチャーに参加する。最初のレクチャーは、海外で<ピッチ>と呼ばれるプレゼン方法について。喋り方はもちろん、言葉使いから、動作や仕草まで、色々な注意事項を説明される。ただ基本はあくまで自分であること、そして企画に対する自分自身の情熱が相手に伝わるようにすることに重点が置かれる。指摘されれば納得だが、<just><only><small><maybe>などの言葉は、ピッチには禁句。何人かが参加者の前で練習させられる。緊張してほとんど何を言っているのが解らない人もいれば、あまりに積極的すぎてあつ苦しい人もいる。どちらかというと、女性の方が比較的冷静だ。キューバ、コスタリカ、ブラジル、メキシコなどラテン諸国から参加しているプロデューサーはなぜか女性が圧倒的に多い。

昼食を挟んでさらにレクチャーが続く。海外との共同企画を推進するためにEU諸国ではプロデューサー組合のようなグループが幾つかある。それぞれがロッテルダム・ラボのような育成プログラムを主催しており、お互いに協力しあいながら情報提供や資金サポートを行っている。行政が率先して文化貢献のために確固たるシステムを確立している。しかもヨーロッパだけに限らず、アジアやラテン圏まで幅広い範囲に渡ってサポートが実施されている。こういった文化貢献のスピリットが日本の行政にはことごとく欠けていることを感じさせられた。

夕方にはカクテルアワーがあり、さらに夜はパーティ。ネットワーキングは永遠と続いていくはずなのだが、パーティをさぼって、昨日出逢ったフィンランドのプロデューサー・マイクと一緒に、フィンランド映画界きっての異端児として知られるピーター・ヴォン・バックの作品を観に行くことにする。監督本人が来場しており、マイクに紹介してもらう。60歳ぐらいの知的な印象を与える紳士は、固い握手をしながら「作品を見に来てくれたんだね」と聞いてくる。「そうです」と応えると「来なくていいよ 最悪な作品だから」と笑顔でひと言。この自虐的ユーモアのセンスが映画にもそのまま投影されているものの、上映後のティーチインからは、彼がどれだけ映画を愛しているかがひしひしと伝わってくるのが、微妙に心地よかった。<続く>

ベルリン映画祭は熊、ロッテルダム映画祭は虎がイメージマスコット

ロッテルダム映画祭日記2

朝起きてホテルを出る。徒歩で映画祭会場に向うと、広場でフリーマーケットが開かれている。近くの教会からは、小さな鐘が鳴り響き、ささやかなメロディを奏でていて、街の賑わう様子とマッチしている。繁華街を通り過ぎると、パイプオルガン、シンバル、笛などが一斉に積み込まれ、チンドン屋のような愉快な音楽を自動で奏でるワゴン車に遭遇。表側にはトランペットを持った1メートルほどの人形が10体ほど並んでいて、音楽に合わせて動く仕掛けになっている。その側では安物の薄いジャケットに身を包んだ男が2人、缶を持って小銭を集めていた。

午後から開かれるロッテルダム・ラボ最初のイベントまでは時間がある。コンピューターを持参して映画祭ラウンジで仕事を済ます。映画祭は始まったばかりのせいか、まわりで仕事をこなしている人達はプレス関係者が多いようだ。様々な言語がそばで飛び交う中、コンピューターに向う。日本では、我が社で自主配給する完山京洪監督作品『seesaw』公開のため、劇場との交渉が大詰めを迎えている。それにあわせてのクラウドファンディングも盛り上げなければいけないし、公開に向けての宣伝戦略も考えなければならない。

あっという間に時間が過ぎ、ロッテルダム・ラボ会場に向う。最初のイベントはスピード・デート。ラボ責任者の歓迎の言葉と簡単な挨拶のあと、円形に揃えられた2列の椅子に参加者70人が座らされる。内側の人は座ったまま、外側の人は1分おきに隣にずれていく。これを40分ぶっとおしで続ける。恥ずかしがる暇もない。ほとんど普段の生活ではしないマシンガントークを炸裂させなければ。相手の話しを聞くのも重要だ。名前はほとんど入って来ない。出身国を覚えておくのがせいぜい。オーストラリア、イスラエル、ルワンダ、韓国、フィリピン、イギリス、アイルランド、ドイツ、スウェーデン、世界中から集められた参加者達。数人とは名刺を交換するが、そんな時間さえもないときがある。

ひととおりイベントが終わると、優しい顔をした恰幅のいい背の高い男性が話しかけてくる。フィンランドから参加しているプロデューサー、マイクだ。なんと彼は『かもめ食堂』の撮影にスタッフとして参加していて、フィンランドを代表するカウリスマキ監督の新作にも制作補として参加している。しかも武蔵野美術大学に1年留学した経験があるという。

そのあとは全員で近くのレストランバーに移動。さらにカクテルネットワーク。長年の友人ルカが現れる。10年以上前、ニューヨークで共通の友人を通じて知り合って以来、家に泊まらせてもらったりの付き合いだ。映画祭に参加する度に会える貴重な友人である。パリ在住のプロデューサーで、パリシネマやドバイ映画祭などで企画マーケットのコーディネートをしている。近年、制作会社を立ち上げた彼も、様々な企画を動かそうと試行錯誤している。パートナーとの間にできた可愛い娘リラは5歳。彼女の今後のためにも、何とか企画を動かして会社を機能さねばと語る彼の表情は、いつになく真剣に見えた。

さらにそのあとはテーブルディナー。オランダ料理か何かは解らないが、バイキング方式でパスタや牛肉の煮込みなどが並んでいる。ルワンダと共同企画を制作したオーストラリア人、スウェーデンを拠点として活動するイギリス人プロデューサー、アメリカで話題になっているクラウドファンディングサイトの映像担当の女性に囲まれながら、さらにネットワークが続く。

レストランは土曜の夜を楽しもうとたくさんの人で賑わっている。参加プロデューサーの一部は、カフェ(大麻を吸える場所)にしけこもうと消えていく。明日は朝食からネットワーキングが始まる。睡眠をとっておこう。レストランをあとにしたのは真夜中前。冷え込んだ夜の空気を感じながら、早足でホテルに戻った。<続く>




ロッテルダム映画祭日記1

時は2002年。まだアメリカで暮らしていたころ、自身の短編監督作『ウィズダムデイ』がロッテルダム映画祭に招待されて訪れたことがある。一見作品内容だけでなく、生活環境からしても接点がないヨーロッパの都市で、しっかりとした反応が観客から得られたことに不思議な感動を憶えた。

それから10年後。偶然友人が推薦してくれた御陰で、ロッテルダム映画祭連動企画マーケット<Cinemart>のプラグラムの一部である若手プロデューサー・ワークショップ<ロッテルダム・ラボ>に招待されることになり、再びオランダ第二の都市を訪れている。1年ぶりのヨーロッパだが、あらためて、文化貢献の意識が市民の間にしっかりと根付いているのを感じさせられる。空港からホテルまで送迎してくれる40代前半の男性ドライバーは、映画祭のボランティア。毎年時間がある限り参加しているという。「映画祭はこの街にとって、とても大事なイベントなんだ。経済的にも効果があるし、街全体が活気づく。それに映画祭のスタッフほとんどがボランティアだよ」と語りながら、日本映画のことを盛んに聞いてくる。なぜ日本ではこのような文化貢献の精神が根付かないのだろうと純粋に不思議に思った。

ホテルに到着すると、登録を済ませるために、すぐに映画祭センターを訪れる。金曜日ということもあってか、たくさんの人で盛り上がっている。映画を観に来た市民と映画祭を訪れているゲストだろう。ロビーではアコースティックバンドのライブ音楽が流れ、自由な雰囲気を引き立てている。ああ、ヨーロッパの映画祭に来たと感じる瞬間である。

今回招待された<ロッテルダム・ラボ>は様々なレクチャーやスピード・デートと呼ばれる自己紹介セッションなどを通じて、個々のネットワークを拡げ、国際的な映画制作を後押しするために開催されているもの。公式イベントは明日、世界から集められた若手プロデューサー50人ほどが参加してのスピード・デートから始まる。1分間で自己紹介をしながら、次の椅子に移って30分ほど次から次へと自己紹介をしながら様々なプロデューサーに自己紹介するというハードなイベントだ。それ以後は毎日レクチャーやイベントが朝から夜まで企画されている。映画祭に参加しているものの、ほとんど作品を観る時間がない状態だ。

明日からは、喋りまくらなければならない。エベルギーを補充して備えなければ。金曜の夜に集う人々で賑わうロビーのカフェで、オニオンキッシュとサラダを食べたあと、おとなしくホテルに向って休むことにした。<続く>




あるアラブ人の綱渡り人生

フィルム・ノワールの傑作『リード・マイ・リップス』と『真夜中のピアニスト』のジャック・オディアール監督の最新作『預言者』がやっと先週、東京で公開された。カンヌ映画祭でクランプリを獲って以来、首を長くして待ちのぞんでいた作品は、2年前のフランス映画祭でやっと見ることができて以来、鮮明に記憶に残っている。

前2作とも、どうしようもない犯罪者を描いているのに、誰でも感じたことがある人生の機微を大いに感じさせてくれるような繊細な感覚が大好きだったのだが、『預言者』はそんな感覚をさらに大きなキャンバスに拡げて、『ゴッドファーザー』並のスケールを加えたような作品。若くして刑務所に送り込まれたアラブ人の若い青年が、刑務所を出入りしながら、如何に綱渡り人生を生き抜いていくかが描かれている。時にはどぎつい暴力描写や、フランスのリアルな刑務所事情(夕食には長いバゲットが支給される!)も細かく描かれているが、やはり中心になっているのは、人生を左右するような決断を次々と迫られる青年の機敏なサバイバル本能。一見受動的に見える人生でも、常に能動的に物事は動いている。自分の意志と選択によって、いくつもの可能性が生み出される。そんな当たり前かもしれないことを思い出させてくれる映画。

とにかくこの監督は人間の観察眼のセンスがいい。最も如実に現れているのが、後半のクライマックス(ネタバレなし/心配無用)で、主人公が、コルシカ人のマフィアに脅されて、イタリア人マフィアボスを街で尾行する場面。殺すチャンスをうかがいながら街を歩いていると、ふとショーウィンドーに目がいく。そこには高価な靴が宝物のように飾られている。一瞬だけ気をとられる主人公。<アラブ野郎>と馬鹿にされ、フランスで移民として育った彼にとって、ショーウィンドー越しに輝くピカピカの靴は、権力と金と成功の象徴。手に入れたい。でもいまはガラス越しにちらりと見るだけ。その直後、彼は機転をきかせてある行動に出る! 人生はいつでもどこでもいろんな可能性があるに違いない。『預言者』は渋谷ヒューマントラストで上映中。お見逃しなく! またアメリカ版の予告がバツグンにカッコイイのでこちらでチェック! ターナー・コーディというミュージシャンの<Corner of My Room>という曲がいい。