『フォースの覚醒』に宣戦布告!

*ネタバレなし

「メディアファシズムですね」と知り合いのプロデューサーが呟いた。TVやネットを観れば、あらゆる種類のタイアップ映像が絶え間なく流れ、街角を歩けばモニターがテーマ曲にのせて予告編を発信し、おもちゃだけでなく、あらゆる種類のタイアップ商品が様々なショップに溢れている。たしかに、メディアが中心となり、あらゆる業界が便乗する形でスターウォーズ洗脳に乗り出したのかと思える現象にぴったりの言葉だった。奇妙な居心地悪さを感じながら、とりあえず作品を観るまでは批判するまいと思っていた。しかし『フォースの覚醒』を観てしまったいま、その居心地悪さは決定的な批判的思考へと変貌してしまった。ここで皆様からの批判を覚悟の上で、あえて一石を投じてみたいと思う。 


結論から先に言ってしまうと『フォースの覚醒』は、圧倒的なオリジナリティと創造力で世界に衝撃を与えた1977年公開のオリジナル『スターウォーズ』を巧妙にコピーしたクローンであり、ファンにアピールできるように製造された単なるフランチャイズ商品だった。ストーリーテリングと世界観において、オマージュと呼ぶにはあまりにもお粗末なぐらいにオリジナル作品のコピペが目立つ。平凡に暮らしている孤独な主人公が冒険に巻き込まれて次第に自身の可能性に目覚めていくという流れも、メッセージが隠されたロボットが助けを求めて砂漠の惑星をさまよう前半の設定も、ハンソロが訪れる様々なクリーチャーが登場する酒場も、スターキラー基地内からシールドを解除してスカイファイターで襲撃するという後半の流れも、ほとんどオリジナル作品から引用されている構成や設定である。まして中盤から重要な役割を果たす父と息子の確執においては、オリジナル3部作を通して描かれたテーマまで引用される。絶賛派も否定派も『フォースの覚醒』を鑑賞して、全編を通してどこかで観たような感覚に陥るのは否定できないはず。むしろそれを狙って作品が製造されている。それぐらい今回の作品はシリーズ中で最も独創性に欠ける作品と言える。

勿論、その原因は制作者のオリジナル作品に対する敬意であり愛情でもあるのは、作品を観れば簡単に推測できる。しかし、そこが『フォースの覚醒』の最も危うく批判に値する部分でもある。筆者自身を含むスターウォーズ世代の誰もが、ハンソロとチューバッカが再びファルコン号に乗り込んでくる場面で、感慨深いものを感じるのは間違いない。制作者はオリジナル作品のストーリーや世界観をコピペすることで、センチメンタルな郷愁を観客に植え付ける仕掛けを全編を通して用意している。しかしこのセンチメンタルな郷愁は、この映画自体が醸し出すものではなく、観客がかつて体験したオリジナル作品に対する感情や感動を観客に思い出させているだけにすぎない。敬意と愛情を持て余すあまり、制作者は本来オリジナル作品が持っていた独創性や創造力を受継ぐどころか放棄してしまった。あたかも感情豊かに見える『フォースの覚醒』は、実は仕掛けだけの魂のないクローンなのだ。 

もともとジョージ・ルーカスが、作品を信じていなかった20世紀フォックスに冷遇されながらトラブル続きの撮影を切り抜けて何とか実現させたのが『スターウォーズ』だった。混沌とした当時のアメリカ社会で、勧善懲悪のストーリーは大いに指示され社会現象にまでなった。それが次第にマクドナルドやKFCのようにフランチャイズ化され、スターウォーズはもはや映画でも文化でもなくなり、単なるメディア戦略と化した。『フォースの覚醒』がマーケットを意識しすぎたセンチメンタルな郷愁のために、独創性や創造力を放棄したように、メディアは多様性を拒否し、圧倒的多数を絶対として消費文化を促すだけのマシーンと化した。

「多数派はいつも間違っている」という印象的な台詞が登場するのは、個人の威厳をテーマにした作家イプセンによる戯曲『民衆の敵』だ。さんざんスターウォーズ旋風にさらされ、やっと作品を観た後に、なぜ奇妙な居心地悪さを感じていたのか考えていた時に、ふとこの台詞が浮かんで来た。独創性、創造力、多様性とは社会にとって不可欠ではないのか? 文化やメディアだけでなく、社会でも重要視されるべき要素が、資本主義の名の下に犠牲にされてしまう世の中になってきているのだろうかと考えられずにはいられなかった。

破壊的イノベーションを求めて

ある企画のリサーチで、『<電機・半導体>大崩壊の教訓 電子立国ニッポン再生への道筋』という本を読んでいる。題名の示す通り、80年代から90年代初頭にかけて世界トップを走っていた日本が、如何にして急降下の一途をたどり、欧米だけでなく台湾や韓国に抜かれ敗退にまで至ったかを綴っているビジネス書だ。 

その中でシャープ、パナソニック、ソニーなどが敗退した大きな要因として引用されているのが、<破滅的イノベーション>に対する理解力の欠如だ。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が1995年に発表したこのコンセプトは、端的に説明すると、従来の価値観を覆す変化をもたらし、新しいマーケット開拓の機会をもたらすイノベーションという意だ。圧倒的な技術力で、80年代に一度は<破滅的イノベーション>で世界を制した日本は、それ以後<技術革新>を掲げながらも、持続化と効率化ばかりに目を向け、リスク削減を重視するあまりに<破滅的イノベーション>を産み出さなくなった。結果として、流動的な世界マーケットに対しても遅れをとり、深い溝が大きくなりつつある。


そこで求められるものはマーケット力。外資系の会社では、博士課程卒のトップエンジニアを一定期間マーケッターとして雇い、エンジニアに何が求められているかを把握してもらった上で技術を活かすポジションにまわしている。それに対して日本企業は、修士課程卒をエンジニアとしてそのまま採用するのが主流。日本の学生達も自分の専門を活かせる仕事がしたいというのが一般的のようだ。そればかりか、日本企業内でのマーケティング部門は基本的には市場調査という理解程度で、経営学などに比べるとレベルが低いと思われがちだという。

先月参加したアムステルダムのドキュメンタリー映画祭でも、世界マーケットを課題にしたワークショップでは、デジタル化により従来の配給体制が崩れいく過程において、マーケットと配給に特化したプロデューサー(PMD-Producer of Marketing and Distribution)を制作段階から雇う必要性が強調されていた。要するに、製品も飽和状態、世界マーケットでの従来の需要の縮小が続く<いま>の時代において、業界業種は様々あれど、エンジニアやフィルムメーカーに対して求められていることは同じ。マーケットを踏まえた上で、<破滅的イノベーション>を如何にして達成できるかである。フィルムメーカーが作品を創れるのは当たり前。それだけではもはや仕事を達成したことにはならない時代が到来しているのである。

100円ショップ化する映像業界?

いまドキュメンタリーが熱い。デジタル化にともない数々の国や地域からドキュメンタリーが続々登場して映画祭を騒がせている。その中でもドキュメンタリー映画祭の最高峰として評判のアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭 (IDFA) は、毎年300本程度の作品が上映されるだけでなく、フィルムメーカーがプレゼンをして投資を募る企画マーケット FORUM や、完成作品のセールスに特化した DOCS FOR SALE に加えて、様々なトークイベントも開かれている。2年前に FORUMに参加した際には、終始プレゼンの準備と打合せに奔走していて、上映やトークに参加する余裕がなかったが、今回はトークイベントを中心に参加する機会があった。その中でも一番人気だったのは、会場が満員で立ち見客もでたVOD (ビデオ・オン・デマンド) のトークイベントだった。日本でも、大手ネットフリックスが今年の夏に上陸して業界を揺るがしたことはすでに書いた。秋にはYouTubeも新しいVODサービスYouTube Redの開設を発表している。既存の配給システムに頼ることなく視聴者個人の趣味や興味に応じて作品を提供できるVODの視聴形態が、ドキュメンタリーにとっても成功の鍵として大いに注目されているのだ。FORUM会場の様子。まるで裁判のような雰囲気。

トークイベントでは、数々のVOD会社が紹介され、それぞれのビジネスモデルや契約形態が説明された。欧米では大手以外にも様々なニーズに対応した数々のVOD会社が映像コンテンツを視聴者にダイレクトに提供している。その中には従来の配給からVODへと移行した会社もあれば、ネットセールスのコンサル業や、ネットのみに特化したセールス会社もあり、かつては重要なマーケットだったDVDやテレビ放映が姿を消して、VODマーケットが大きな役割を占めるまでになったことを如実に示していた。VODの世界は毎年大きな変革を重ねており、ドキュメンタリーにとっても大きなチャンスであるとゲスト講師は熱く語っていた。  

その一方で、映像コンテンツ業界の飽和化を危惧する記事が欧米のブログやニュースサイトでチラホラ書かれるようになった。かつては公開される全ての作品をレビューすることを編集方針としていたニューヨーク・タイムズ紙では、900本以上の公開本数を記録した2013年以降、レビュー対象になる作品を毎週選定することを決定しただけでなく、膨大な作品数とは裏腹に全体的な質の低下も指摘していた。 

先月末のINDIEWIREでは、<中流階級フィルムーメーカーの危機>という見出しで、 制作側に立った視点から、映像コンテンツ業界の飽和化と格差化を指摘している。ハリウッドの1%が、巨額の予算とマーケティング力でフランチャイズ商品(『スターウォーズ』『アベンジャーズ』など)で市場を独占し巨額の利益を手にする一方で、残り99%がインディーズとして苦戦を強いられている。さらにネットとデジタル化がインディーズ層の拡大にも貢献し、競争率はますます激しくなっているのが現状という内容だ。 

アートとカルチャー専門ウェブマガジンSALON.COMでは、去年アメリカでの映画公開本数が1500本にのぼり、供給と需要のバランスが崩れているという記事を掲載した。スティーブン・ソダーバーグやジム・ジャームッシュなどが頭角を現したインディーズ創成期と違い、現在の状況は、競争率が激しいために労働賃金や制作費がどんどん削られ、現場スタッフが困難な条件で制作を強いられているだけでなく、作品が何らかの形で配給されるチャンスも少ない。にも関わらず、映画学校、映画祭、クラウドファンディングサイトなどの周辺産業が、作品数の増加を助長しており、飽和化が深刻になっているという。 

この状況を日本に置き換えてみよう。東京で毎週公開される映画の本数は12から15本ほど。1年で最低700本程度の映画が公開されており、正式なルートで公開されない作品も含めると制作本数は最低でも1000から1200本程度だろうか。これだけで作品や配給会社にとって、観客を獲得するのが如何に熾烈な争いかは想像できると思う。いわゆる飽和化はアメリカだけの状況ではないのは明らかだ。 

そんな飽和状態にありながらも、業界に身をおく者にとっては、この状況をチャンスとして捉えるしかないと思っている。才能があれば評価される、面白ければ観せる場があるという既存のシステムはすでに崩壊した。現状、マーケットは作品で溢れ返っている。そこで、フィルムメーカーに今まで以上に要求されるのは、マーケットの動きを踏まえた上で、チャレンジの価値ある作品を形にしていくこと。それは作品を観せる側にとっても同様で、需要を正確に踏まえつつ、チャレンジの価値ある作品を提供することだと思う。