ひかりのまち ロンドン

5年前にロンドンを訪れた時は初夏だった。滞在していたレナード・ホテルから目と鼻の先にある広大なハイドパークを何度も歩き回った。都会の真ん中なのに別世界にいるような錯覚を抱く寛大な緑を鮮明に憶えている。

初冬のハイドパーク。黄色に染まった木葉が、枝をむき出しにした木々にまだしがみついている。茶色に枯れた落葉が、風に吹かれて地面を転がるように追いかけてくる。初夏と比べるとすっかり様変わりしていたが、ハイドパークは相変わらず寛大で優しかった。


 

午後5時前後にすっかり日が暮れてしまうのと同時に、街には一斉に人が溢れ出す。ショッピングに繰り出す観光客に、帰路を急ぐ通勤者が加わって、ピカデリー・サーカスはごった返しになる。

午後7時半に友人アティラと会う約束をしていたテームズ川南岸の駅へと急ぐ。ロンドンの地下鉄はチューブという呼び名に相応しく、車内は狭苦しくて天井も低い。ショッピングバッグを抱えた初老の女性が目の前に座ると、ふと目が合う。儀礼的に微笑む女性。目が合えば他人でも微笑む文化にいることを思い出して、軽く微笑み返した。

10分前に到着すると、彼は駅の改札口ですでに待っていた。5年ほど経つので当然だが、一瞬見過ごすぐらいに少し老けて見えた。トルコ人の父とイギリス人の母のハーフのアティラは、留学先のアメリカの高校で、最初にできた友人だった。教師として赴任した母親と一緒にトルコから来ていて、お互いに留学生だった。もう20年前になる。1年だけ同じキャンパスで過ごした後、彼はイギリスへ留学して、それ以後、連絡も途絶えた時期もあったが、不思議なことに、まだこうやって連絡を取り合うときがある。お互いに落ち着くこともなく、放浪人生のようなものを歩んでいるからだろうか。

「南岸は来たことある? 川沿いを歩きながら、レストランを見つけようと思ってたんだ。」 前回10年ぶりに会った時にも一緒に南岸に来たことを知らせると、「そうだった? いつも南岸に連れてくるなんて、つまらない男だな。気をつけないと」とはにかむように笑うアティラ。彼は相変わらず結婚もせずに気ままなアパート暮らしを続けていた。

レストランに座って話し始めると、記憶が戻ってくるように、20年前から変わらない何に対してもオープンで寛容な性格が姿を現す。自分も当時は彼のそんな性格に魅かれていたのだろう。「退屈で無関心で感情がないんだ。よく言われる」と満面の笑みを浮かべて話す彼は、まったく変わらない。無駄に謙虚な彼を、外人なのに不思議だと勝手に思っていた当時を思い出す。日本人が考える日本人特有の謙虚さは、日本人の特許ではないと発見するのはもっと後だった。

食事の後、ロンドンで最も古いワインバーに連れて行ってくれた。ワイン貯蔵庫をそのまま作り替えた店内は、大きな木製のテーブルにおかれたロウソクで照らし出されていて、観光客と地元の客で賑わっている。話題は高校時代の知り合いの末路になる。ハゲて横に膨れ上がり、当時とは似ても似つかない姿になった人。いまでも変わらない人。知り合いの変貌ぶりが話題になるぐらいに、2人とも歳をくった証拠だろう。彼は高校が懐かしいようで、ロンドンでの同窓生の集まりにも出席したりしていた。 

真夜中が近づき、南岸の駅まで歩いて戻った。木曜の夜なのに街はまだ賑わっている。1日中歩き回って疲れていたが、ふと街の様子を観たいと思い、歩いてホテルまで戻ることにする。アティラとはまた会う約束をして別れた。「今度は日本で。」「ああ、そうだね。」

演劇街のピカデリー・サーカスを経由して、ショッピング街のオックスフォード・サーカスへ向かう。街中がすっかりクリスマスの装いになっていて、チューブ駅近辺は撮影が行われているのかと勘違いするぐらいに、イルミネーションが眩しい。


 

活気溢れるロンドンの街をみながら、マイケル・ウィンターボトム監督の『ひかりのまち』を思い出していた。普通の人々がそれぞれの人生の岐路で立ち止まり、思い悩むというなんでもない群像劇だったが、大好きな作品だった。ロンドンの普通の人々に向ける監督の眼差しが限りなく優しくて心地よく、とても感動的だった。

クリスマスのイルミネーションに照らし出された街を歩く人々は、いきいきと輝いていて、不思議なぐらいに誰もが個性的で、生命力に溢れているような感覚に陥った。5年ぶりのロンドンは限りなく優しく、まさにひかりに溢れた街だった。