The Crack-Up = 崩壊

「当然ながら、すべての人生は崩壊のプロセスである」という衝撃的な一文で始まる『The Crack-Up』は、『華麗なるギャッツビー』の再映画化や 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の映画化で近年話題になっているアメリカ文学を代表する作家 F・スコット・フィッツジェラルドによる、1936年にエスクワイア誌に連載された3つの独白的エッセイ集である。アルコール中毒と戦いながら、44歳の若さでこの世を去った作家が書いたこのエッセイは、4年後の死を予知した自己分裂の記録とも言える。


 

自らの才能の枯渇に苦しみ、文学に取り組むかわりに(20年の作家歴の中で長編小説は4つと未完作が1つ)、経済的な理由でたくさんの短編を雑誌に書き下ろした自分を、商業性に身を売ったと責めて悩み続けたフィツジェラルド。自分自身のモラルと精神が致命的な打撃を受けながらも、手遅れになるまで気付かなかったと繰り返す悔恨の念が、このエッセイにねちねちと書き綴られている。そんな文章は読みたくないと思われる方もいるかもしれない。しかしこの奇妙に美しい文章は、不思議に軽快な自虐的ユーモアに溢れていて、内容とのギャップが読者に強烈なインパクトを与える。

翻訳版の題名は「崩壊」。まさに崩壊であるのは間違いないのだが、少し原題と意味合いが違う。<Crack>とはひび割れるという意もあり、<Crack up>だと崩壊の意もあるが、突然大笑いするという意味でも使われる。音は英語でも重要な要素であるが、<The Crack-Up>のイメージは、<崩壊>という日本語の重苦しいイメージとはまた違ったものである。何かあっけらかんとした英題の軽快さと明瞭さが、邦題から受けるイメージよりも、このエッセイを遥かに魅力的なものにしている。

まさにこの英語的な軽快さと明瞭な表現が、フィッツジェラルド文学の魅力の一つかもしれない。著作の多くを翻訳した村上春樹も、『崩壊』は<フィッツジェラルド文学の散文の極致>として絶賛しており、フィッツジェラルド文学においての冒頭の書き出し部分のインパクトの強さを語っている。「当然ながら、すべての人生は崩壊のプロセスである」の一文で始まるエッセイもその一例であるが、確かにフィッツジェラルドの短編は、その魅力的な冒頭部分で引き込まれてしまうものが多い。自分のお気に入りの短編『Love In the Night』の冒頭部分を引用させてもらう。

「その言葉にヴァルは心躍らされた。その言葉は、黄金色に 輝く新鮮な4月の午後のように彼の心に流れ込み、何度も繰り返されたのだった:love in the night; love in the night.」

ストーリー自体は、17歳の青年が初めて恋に落ちるというだけの他愛ないものだが、その巧みな言葉遣いの隅々にわたり、思春期の普遍的なナイーブさ、きらめき、脆さ、すべてが凝縮されているような印象を受ける。そんな流麗な表現で一瞬のきらめきを綴った作者が、その表現力はそのままに、如何にして『The Crack Up』の自虐的なユーモアと陰惨なまでの絶望に至ったのか? 奔放ながらも情緒不安定に苦しんでいた妻ゼルダとの嵐のような結婚生活の破綻だったのか? フィッツジェラルドが最も輝いたと言われる1920年代(『Love In the Night』は1925年に書かれている)を代表するジャズエイジが崩壊し、第二次世界大戦に向かっていく1930年代の世界恐慌の中で陥った絶望だったのか? 自分勝手に想像しながら埋め合わせをして読めたのも、このエッセイのもう楽しみの一つであった。まだ『The Crack Up』を未体験の方はぜひ手にとってページをめくってみてください。