いま聞くべき言葉 byノーム・チョムスキー

ノーム・チョムスキーをご存じだろうか? それはロシアのスパイでもなく、韓国製の製品名でもない。21世紀を代表する知識人として、アメリカの政治、歴史、社会について様々な論文を発表し続け、近年になって高く再評価されているマサチューセッツ工科大学名誉教授がノームチョムスキーだ。今年で89歳を迎えるチョムスキーは言語学者でもあり、いまだにエネルギッシュに活動を続けていて、2年前にも来日して講演を行ったばかり。チョムスキーとやらは聞いたことも興味もないし、難しい論文や哲学は苦手と思われている方、騙されたと思ってネットフリックスにひっそりとアップされている「アメリカン・ドリームへのレクイエム」(2015)を観てほしい。チョムスキーにまつわるドキュメンタリーは数多くあるが、この作品は、チョムスキーが長年のキャリアを通して主張してきた、アメリカでの民主主義が如何にして格差社会を助長しているかを、チョムスキー本人独自の解釈で暴露していく衝撃のドキュメンタリーである。



わずか80分程度のコンパクトにまとめられたこの作品は、チョムスキー本人がひたすらカメラに向かって語りかけるだけのシンプルなスタイルだが、アメリカの民主主義の恐るべき実態が、<富と権力を集中させるための10の原理>という構成にそって、工夫されたグラフィックや様々なアーカイブ映像を駆使し、アメリカン・ドリームと謳われてきた民主主義は、実は上っ面だけのもので、富と権力を保持する既得権者が如何にしてコントロールしているかが、次々に暴かれていく。チョムスキーの説得力ある理論は、アメリカ史を独自の観点から捉えていて、目から鱗が落ちるほどショッキングだ。

原理1は、ずばり<民主主義の低減>。最も市民運動が活発で、度々体制側と市民が衝突した60年代以降、政府や企業は市民が権力を要求する民主主義に対して恐怖を抱き、警戒するようになった。その結果、行政や教育機関では、過剰な民主主義は抑圧されるべきであるとの認識が70年代以降色濃くなっていく。それが原理2<思想の形成>。原理3<経済の改革>では、グローバル化が進むにつれ、企業によるアウトソーシングなどで、労働者が世界レベルで厳しい競争を強いられるようになっていった事実が指摘され、経済全体が生産業から金融業にシフトするにつれ、既得権者はすでに得た富を利用して自らを護る術を手に入れ、労働者はますます不安定な雇用状況と向き合わなければならなくなるという流れが、80年代までには確固として存在するようになる。その結果、50年代黄金期に謳われたアメリカンドリームの特徴であった階級に関係なくチャンスがあるという構図は、ますます非現実的なものになっていったとチョムスキーは指摘する。そして原理4<重荷のシフト>では、60年代まではアメリカでの法人税が、いまよりも遥かに高かったことを指摘し、大企業と政府の関係が密になるにつれ、企業は法人税の低減を訴え、政府が市民に対して税金をあげていく構図が指摘される。リーマンショック後、もともとの元凶であった大手の金融会社が政府援助を受けたことを考えれば、これは確かに頷ける。



アメリカ社会の仕組みが悪夢の連鎖のように見えてくるのと同時に、日本の民主主義との共通点も多いことに気付かされる。憲法改正で盛り上がった市民運動に動揺して、強行採決に踏み切った安倍政権は少なからずとも原理1<民主主義の低減>を念頭に置いていたに違いない。原理4<重荷のシフト>は、消費税引き上げで揺れる日本での状況に似ている。社会の重荷から企業は免れ、一般市民が全体責任を一手に負わされるという問題で、結局護られているのは企業を経営する既得権者であり、大企業に癒着する政治家たちだ。

さらに日本との共通点が決定的になるのは原理9<合意の形成>だ。このチャプターでは、豊かさの幻影を与える消費社会を創り出すことで、市民を民主主義の参加者ではなく傍観者としてコントロールできる理論が展開され、広告会社が社会的に大きな役割を果たすようになった70年代を例にあげ、メディアによる市民の洗脳と消費社会が同時に急速に発展したことにより、市民の政治的意識が希薄になり、アメリカ社会が本来の民主主義からかけ離れていった事実が証明される。オバマ大統領でさえ、就任当時はベストキャンペーンとして賞を受賞する時代。すべてはイリュージョン(→見せかけ)でしかないのか? 安価のコピー品ばかりが並ぶ100円ショップが溢れかえる日本社会でも、消費による洗脳が強力な磁力となっているのは間違いない。チョムスキーは、消費社会では<不合理な選択をする十分な知識を持たない消費者の創出が目的>と指摘するが、メディアへの介入などで批判にさらされていたはずの安倍政権率いる自民党が、参議院選挙で圧勝するのも、まさにチョムスキーが指摘する点と重なる。 

そして最後のチャプター原理10<市民の軽視>では、本来ならば参加者であるはずの民主主義に一切影響を与えることができなくなった市民に残された選択肢は、弱者への責任転嫁であると指摘される。そこで産み出されるのは暴力と憎悪。アメリカでは黒人差別がより深刻化しており、世界でも移民差別や宗教の違いによる暴力事件が多発している。日本でもヘイトスピーチやマイノリティに対する迫害や偏見であふれている。

そんな状況の中で未来に希望はあるのか? 映画のラストで、チョムスキーは自らの経験を踏まえて希望はあると断言している。もちろんそうであると信じたいが、市民全体が傍観者から参加者になる必要がある。そんな意識を育むために、いまフィルムメーカーはどういうテーマに取り組み、何を映し出すべきなのか? それが問われるべき時代になってきているのは言うまでもない。

映画における反骨精神のすすめ


近頃は映画業界やビジネスのことについてばかり書いていたので、ここで少し映画の話をしようと思う。感銘を受けたり感動したり、素晴らしい作品を観る度に、自分が映画業界に身を置く理由を思い出させてくれる映画。正直なかなかそんな作品に出逢うのは難しい。でも何気なくつけたスカパーチャンネルで放映されていた古くて懐かしいその作品は、久しぶりに士気を奮い立たせてくれた。1964年に製作された「大列車作戦」である。 

当時流行った大げさなタイトルは、時代にとり残された古臭さを漂わす。しかもモノクロ映像で、ジャンルと言えばこれも当時盛んに制作されていた第二次世界大戦ものだ。バート・ランカスターという昔のハリウッドスターが出演しているが、TSUTAYAの片隅で埃をかぶる運命にあるのは間違いないだろう。でも久しぶりに鑑賞して、どれだけ素晴らしい作品だったかを思い知らされた。まさに時代を越えて映画史に残っていく輝きを持った作品だった。やはり語り口のうまさと演出なのだろう。多くを語らずとも冒頭から一気に観客を引き込んでくれる。 

第二次世界大戦末期、ナチス・ドイツの撤退が噂されるようになった占領下のフランス。とある美術館を訪れるナチスのヴァルトハルム大佐。静まり返って誰もいない美術館の中には、戦火を逃れたフランスが誇る絵画や彫刻の数々が一堂に集められている。贅沢な美術鑑賞に一人で耽る大佐に、忍び寄るように近づくフランス人館長。フランスの文化であり誇りを護ってくれたことを大佐に感謝する。敵であるにも関わらず、大佐は美術品の価値を理解し保護してくれたのだ。しかし大佐は、戦況が不利になる前にドイツにすべての美術品を運び出すと伝える。価値の高い美術品を見込んで、ヒトラーの所有物にすることが大佐の目的だった。瞬く間に兵士たちが美術品を囲み、移動に備えて荷造りを始める。必死で抗議する館長を冷たく見つめる大佐の眼。ここからオープニングのクレジットが始まる。地味でシンプルだが、戦争そのものの矛盾を提示するだけでなく、戦争とは既得権者の<欲>のぶつかり合いでしかないというテーマを冒頭から明確に打ち出す素晴らしいオープニングだ。 
鉄道で運び出される美術品輸送を阻止しようと、鉄道会社に頼みこむ美術館館長。優秀な鉄道員として働くラビッシュは、実はレジスタンスのリーダー。美術品の為に数少ない仲間の命を危険にさらすことを拒否するラビッシュだが、国外に設置された臨時政府の命令で、渋々任務を仕切ることになる。ストーリーが進むにつれ、ヴァルトハルム大佐の周辺でも、戦況が不利になる中で美術品を運ぶ任務に疑問を抱くドイツ兵もいることが明白になる。しかし大佐の決意は固く、任務遂行の為なら脅しも厭わない。絶対的に美術品の価値を信じているのだ。妨害工作に気付いたヴァルトハルム大佐は、確実に仕事をこなすラビッシュを見込んで、ドイツへの略奪運送を必ず達成するように機関士として乗り込むように命令する。この後、色んな妨害工作が仕掛けられるが、レジスタンスの仲間や彼らに協力した市民は次々に倒れていく。最後には、生き残ったラビッシュが一人で列車を阻止しなければいけなくなるというストーリー展開。所々で機関車を駆使したダイナミックなアクションも展開するかと思えば、レジスタンスに協力する宿屋の女将(ジャンヌ・モローが演じている)とのロマンスとさえ呼べないささやかな男女のやりとりも描かれて、ますます戦争という愚行が浮かび上がってくる。 

ラスト、ラビッシュの妨害工作が成功し、機関車は大きく脱線してしまう。その見せしめに、ヴァルトハイム大佐は乗車しているフランス人市民の虐殺を命令する。近くの林道を車両で撤退するドイツ兵を降ろして、今度は車で美術品を運ぼうとする大佐だが、部下は反抗して遂に大佐は見放されてしまう。部下に叱責されてはじめて我に返り、任務の失敗を認めざるを得なくなる大佐。部下たちが撤退した後も、美術品のそばを離れない大佐の前に現れるのは機関銃を持ったラビッシュ。所詮お前には美術品の価値はわからないと罵る大佐。虐殺された市民の死体の山を見て、ラビッシュは凛として立ち尽くしている大佐を射殺する。虐殺された市民のクロースアップと、辺りに散乱するゴーギャン、ルノワール、ゴッホ、マネ、ピカソなどと記された美術品の箱のアップが交互に映し出されて映画は終わる。ドライで辛辣で衝撃的なラスト。戦争を扱った映画によくある安っぽいドラマ性や感傷はなく、ただ物哀しい虚無感と心地の悪い脱力感が残る。同時に込み上げてくるのが、この時代に作られた多くの傑作に共通した反体制・反骨精神のスピリット。痛烈でパンチの効いた映像表現として迫力ある作品になっている。

監督は、この作品の前後に映画史に残る傑作を連発したジョン・フランケンハイマ―。キャリア初期の数多くの作品は、反体制・反骨精神のスピリットに満ち溢れた作品を作り続けたが、キャリア中期から後期は珍作・迷作も多かった。日本ではテロリストから脅迫文書が劇場に届いたために公開が見送られた1977年の「ブラックサンデー」で一時的に復活したが、初期のクオリティに勝る作品を撮ることはなかった。

『フォースの覚醒』に宣戦布告!

*ネタバレなし

「メディアファシズムですね」と知り合いのプロデューサーが呟いた。TVやネットを観れば、あらゆる種類のタイアップ映像が絶え間なく流れ、街角を歩けばモニターがテーマ曲にのせて予告編を発信し、おもちゃだけでなく、あらゆる種類のタイアップ商品が様々なショップに溢れている。たしかに、メディアが中心となり、あらゆる業界が便乗する形でスターウォーズ洗脳に乗り出したのかと思える現象にぴったりの言葉だった。奇妙な居心地悪さを感じながら、とりあえず作品を観るまでは批判するまいと思っていた。しかし『フォースの覚醒』を観てしまったいま、その居心地悪さは決定的な批判的思考へと変貌してしまった。ここで皆様からの批判を覚悟の上で、あえて一石を投じてみたいと思う。 


結論から先に言ってしまうと『フォースの覚醒』は、圧倒的なオリジナリティと創造力で世界に衝撃を与えた1977年公開のオリジナル『スターウォーズ』を巧妙にコピーしたクローンであり、ファンにアピールできるように製造された単なるフランチャイズ商品だった。ストーリーテリングと世界観において、オマージュと呼ぶにはあまりにもお粗末なぐらいにオリジナル作品のコピペが目立つ。平凡に暮らしている孤独な主人公が冒険に巻き込まれて次第に自身の可能性に目覚めていくという流れも、メッセージが隠されたロボットが助けを求めて砂漠の惑星をさまよう前半の設定も、ハンソロが訪れる様々なクリーチャーが登場する酒場も、スターキラー基地内からシールドを解除してスカイファイターで襲撃するという後半の流れも、ほとんどオリジナル作品から引用されている構成や設定である。まして中盤から重要な役割を果たす父と息子の確執においては、オリジナル3部作を通して描かれたテーマまで引用される。絶賛派も否定派も『フォースの覚醒』を鑑賞して、全編を通してどこかで観たような感覚に陥るのは否定できないはず。むしろそれを狙って作品が製造されている。それぐらい今回の作品はシリーズ中で最も独創性に欠ける作品と言える。

勿論、その原因は制作者のオリジナル作品に対する敬意であり愛情でもあるのは、作品を観れば簡単に推測できる。しかし、そこが『フォースの覚醒』の最も危うく批判に値する部分でもある。筆者自身を含むスターウォーズ世代の誰もが、ハンソロとチューバッカが再びファルコン号に乗り込んでくる場面で、感慨深いものを感じるのは間違いない。制作者はオリジナル作品のストーリーや世界観をコピペすることで、センチメンタルな郷愁を観客に植え付ける仕掛けを全編を通して用意している。しかしこのセンチメンタルな郷愁は、この映画自体が醸し出すものではなく、観客がかつて体験したオリジナル作品に対する感情や感動を観客に思い出させているだけにすぎない。敬意と愛情を持て余すあまり、制作者は本来オリジナル作品が持っていた独創性や創造力を受継ぐどころか放棄してしまった。あたかも感情豊かに見える『フォースの覚醒』は、実は仕掛けだけの魂のないクローンなのだ。 

もともとジョージ・ルーカスが、作品を信じていなかった20世紀フォックスに冷遇されながらトラブル続きの撮影を切り抜けて何とか実現させたのが『スターウォーズ』だった。混沌とした当時のアメリカ社会で、勧善懲悪のストーリーは大いに指示され社会現象にまでなった。それが次第にマクドナルドやKFCのようにフランチャイズ化され、スターウォーズはもはや映画でも文化でもなくなり、単なるメディア戦略と化した。『フォースの覚醒』がマーケットを意識しすぎたセンチメンタルな郷愁のために、独創性や創造力を放棄したように、メディアは多様性を拒否し、圧倒的多数を絶対として消費文化を促すだけのマシーンと化した。

「多数派はいつも間違っている」という印象的な台詞が登場するのは、個人の威厳をテーマにした作家イプセンによる戯曲『民衆の敵』だ。さんざんスターウォーズ旋風にさらされ、やっと作品を観た後に、なぜ奇妙な居心地悪さを感じていたのか考えていた時に、ふとこの台詞が浮かんで来た。独創性、創造力、多様性とは社会にとって不可欠ではないのか? 文化やメディアだけでなく、社会でも重要視されるべき要素が、資本主義の名の下に犠牲にされてしまう世の中になってきているのだろうかと考えられずにはいられなかった。

破壊的イノベーションを求めて

ある企画のリサーチで、『<電機・半導体>大崩壊の教訓 電子立国ニッポン再生への道筋』という本を読んでいる。題名の示す通り、80年代から90年代初頭にかけて世界トップを走っていた日本が、如何にして急降下の一途をたどり、欧米だけでなく台湾や韓国に抜かれ敗退にまで至ったかを綴っているビジネス書だ。 

その中でシャープ、パナソニック、ソニーなどが敗退した大きな要因として引用されているのが、<破滅的イノベーション>に対する理解力の欠如だ。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が1995年に発表したこのコンセプトは、端的に説明すると、従来の価値観を覆す変化をもたらし、新しいマーケット開拓の機会をもたらすイノベーションという意だ。圧倒的な技術力で、80年代に一度は<破滅的イノベーション>で世界を制した日本は、それ以後<技術革新>を掲げながらも、持続化と効率化ばかりに目を向け、リスク削減を重視するあまりに<破滅的イノベーション>を産み出さなくなった。結果として、流動的な世界マーケットに対しても遅れをとり、深い溝が大きくなりつつある。


そこで求められるものはマーケット力。外資系の会社では、博士課程卒のトップエンジニアを一定期間マーケッターとして雇い、エンジニアに何が求められているかを把握してもらった上で技術を活かすポジションにまわしている。それに対して日本企業は、修士課程卒をエンジニアとしてそのまま採用するのが主流。日本の学生達も自分の専門を活かせる仕事がしたいというのが一般的のようだ。そればかりか、日本企業内でのマーケティング部門は基本的には市場調査という理解程度で、経営学などに比べるとレベルが低いと思われがちだという。

先月参加したアムステルダムのドキュメンタリー映画祭でも、世界マーケットを課題にしたワークショップでは、デジタル化により従来の配給体制が崩れいく過程において、マーケットと配給に特化したプロデューサー(PMD-Producer of Marketing and Distribution)を制作段階から雇う必要性が強調されていた。要するに、製品も飽和状態、世界マーケットでの従来の需要の縮小が続く<いま>の時代において、業界業種は様々あれど、エンジニアやフィルムメーカーに対して求められていることは同じ。マーケットを踏まえた上で、<破滅的イノベーション>を如何にして達成できるかである。フィルムメーカーが作品を創れるのは当たり前。それだけではもはや仕事を達成したことにはならない時代が到来しているのである。

100円ショップ化する映像業界?

いまドキュメンタリーが熱い。デジタル化にともない数々の国や地域からドキュメンタリーが続々登場して映画祭を騒がせている。その中でもドキュメンタリー映画祭の最高峰として評判のアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭 (IDFA) は、毎年300本程度の作品が上映されるだけでなく、フィルムメーカーがプレゼンをして投資を募る企画マーケット FORUM や、完成作品のセールスに特化した DOCS FOR SALE に加えて、様々なトークイベントも開かれている。2年前に FORUMに参加した際には、終始プレゼンの準備と打合せに奔走していて、上映やトークに参加する余裕がなかったが、今回はトークイベントを中心に参加する機会があった。その中でも一番人気だったのは、会場が満員で立ち見客もでたVOD (ビデオ・オン・デマンド) のトークイベントだった。日本でも、大手ネットフリックスが今年の夏に上陸して業界を揺るがしたことはすでに書いた。秋にはYouTubeも新しいVODサービスYouTube Redの開設を発表している。既存の配給システムに頼ることなく視聴者個人の趣味や興味に応じて作品を提供できるVODの視聴形態が、ドキュメンタリーにとっても成功の鍵として大いに注目されているのだ。FORUM会場の様子。まるで裁判のような雰囲気。

トークイベントでは、数々のVOD会社が紹介され、それぞれのビジネスモデルや契約形態が説明された。欧米では大手以外にも様々なニーズに対応した数々のVOD会社が映像コンテンツを視聴者にダイレクトに提供している。その中には従来の配給からVODへと移行した会社もあれば、ネットセールスのコンサル業や、ネットのみに特化したセールス会社もあり、かつては重要なマーケットだったDVDやテレビ放映が姿を消して、VODマーケットが大きな役割を占めるまでになったことを如実に示していた。VODの世界は毎年大きな変革を重ねており、ドキュメンタリーにとっても大きなチャンスであるとゲスト講師は熱く語っていた。  

その一方で、映像コンテンツ業界の飽和化を危惧する記事が欧米のブログやニュースサイトでチラホラ書かれるようになった。かつては公開される全ての作品をレビューすることを編集方針としていたニューヨーク・タイムズ紙では、900本以上の公開本数を記録した2013年以降、レビュー対象になる作品を毎週選定することを決定しただけでなく、膨大な作品数とは裏腹に全体的な質の低下も指摘していた。 

先月末のINDIEWIREでは、<中流階級フィルムーメーカーの危機>という見出しで、 制作側に立った視点から、映像コンテンツ業界の飽和化と格差化を指摘している。ハリウッドの1%が、巨額の予算とマーケティング力でフランチャイズ商品(『スターウォーズ』『アベンジャーズ』など)で市場を独占し巨額の利益を手にする一方で、残り99%がインディーズとして苦戦を強いられている。さらにネットとデジタル化がインディーズ層の拡大にも貢献し、競争率はますます激しくなっているのが現状という内容だ。 

アートとカルチャー専門ウェブマガジンSALON.COMでは、去年アメリカでの映画公開本数が1500本にのぼり、供給と需要のバランスが崩れているという記事を掲載した。スティーブン・ソダーバーグやジム・ジャームッシュなどが頭角を現したインディーズ創成期と違い、現在の状況は、競争率が激しいために労働賃金や制作費がどんどん削られ、現場スタッフが困難な条件で制作を強いられているだけでなく、作品が何らかの形で配給されるチャンスも少ない。にも関わらず、映画学校、映画祭、クラウドファンディングサイトなどの周辺産業が、作品数の増加を助長しており、飽和化が深刻になっているという。 

この状況を日本に置き換えてみよう。東京で毎週公開される映画の本数は12から15本ほど。1年で最低700本程度の映画が公開されており、正式なルートで公開されない作品も含めると制作本数は最低でも1000から1200本程度だろうか。これだけで作品や配給会社にとって、観客を獲得するのが如何に熾烈な争いかは想像できると思う。いわゆる飽和化はアメリカだけの状況ではないのは明らかだ。 

そんな飽和状態にありながらも、業界に身をおく者にとっては、この状況をチャンスとして捉えるしかないと思っている。才能があれば評価される、面白ければ観せる場があるという既存のシステムはすでに崩壊した。現状、マーケットは作品で溢れ返っている。そこで、フィルムメーカーに今まで以上に要求されるのは、マーケットの動きを踏まえた上で、チャレンジの価値ある作品を形にしていくこと。それは作品を観せる側にとっても同様で、需要を正確に踏まえつつ、チャレンジの価値ある作品を提供することだと思う。

いまTV/ネットに才能が集結 その4

さてネットフリックスを始めとして、TV/ネット界が、映画製作者だけでなく、視聴者にも多大な影響を与え始めていることを書いてきた。そして遂にこの秋から、ネットフリックスが本格的に映画業界に殴り込みをかけてくる。

前回紹介した『TRUE DETECTIVE/二人の刑事』のケアリー・フクナガ監督の最新作『ビースト・オブ・ノー・ネーション』は、西アフリカの架空の国で展開する武装集団に巻き込まれる少年の話。約6億円で製作されたこの作品は、完成後、ネットフリックスが全世界権を約12億円で買収したことで話題になった。(ネットフリックスは<オリジナル制作作品>と宣伝しているが、正確には完成後に買収している) そして今年8月にヴェニス国際映画祭でプレミア上映されて話題になって僅か2ヶ月後、10月16日から日米同時ネット配信が始まるのである。アメリカでは限定で劇場公開も決まっているようだが、日本では、プレミア規定に関して厳しいはずの東京国際映画祭で、配信開始後の10月末に上映される(ちなみにチケットは2000円)ようだ。このように話題作が三大映画祭でのプレミア上映直後に日本でもネットで観れるようになれば、<劇場公開/配給>のあり方がますます問われるようになるのは間違いない。

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話かわって、このシリーズ最後に紹介したい筆者がはまってしまったTVシリーズは、『羊たちの沈黙』ファンは必見のTVシリーズ『ハンニバル』だ。メジャーTV局(米NBC)が制作したとは思えないぐらいグロテスクな事件やおぞましい登場人物が次々に現れて、カニバリズム(食人)まで描かれているにも関わらず、低俗な見世物主義に染まらずに、映画シリーズにも劣らない心理サスペンスとして迫力満点。ドクター・ハンニバルとFBI捜査官の、次第に立場が逆転していく心理的な駆け引きを中心に、不気味な映像美で視聴者を魅惑するユニークなTVシリーズだ。全エピソードの美術も素晴らしいのだが、毎回<食事>の場面にも異様なほど凝りまくって撮影されているのにも注目。シーズンが進むに連れて、おぞましさと異様な映像美が増大していくので、シーズン3でNBCが打ち切りを発表したのにも納得できる。

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アメリカでは、魅力的なシリーズが近年になってぞくぞく登場している。その背後には、一極化していくハリウッドに対して台頭してきたTV/ネット界の影響があると同時に、才能あるフィルムメーカーが集結していることもあげられる。その結果として視聴者までに影響が及んでいることを考えれば、日本の映画業界にも影響がでてくるはず。保守的で萎縮化している日本映画業界も、いまこそリスクを踏まえた上で新しい可能性を追求するべきではないだろうか。

いまTV/ネットに才能が集結 その3

皆さんは、英語で<binge watching>というフレーズをご存知だろうか? 

<binge>とは<過剰>や<やり過ぎ>の意味を持つ口語だが、<binge watching>で、<イッキ見>の意味になる。2013年にオックスフォード辞典に収録されたこの新語は、ネットフリックスが如何に欧米で視聴者の映像コンテンツの見方に大きく影響を与えたかを示唆している。 従来のTVシリーズ放映であれば、1週間に1エピソードずつ放映されて、3ヶ月ほどで1シーズンが完結となるが、<binge watching>は、放映開始と同時に全エピソードを見る事ができるネットフリックスならではの視聴方法だ。TVシリーズの場合、1エピソードずつ放映された後に、批評家がメディアにレビューを書くのが欧米では通常だが、<binge watching>の到来により、視聴者の見方だけでなく、TVレビューの書き方まで変えたとコメントする批評家もいる。

いま、まさに中毒性の高い映像コンテンツが視聴者から求められていることに、フィルムメーカーが注目すべき点が隠されている。TVシリーズにおいて、観客に飽きさせない中毒性を提供するには、現在ハリウッドが量産しているアクションやSFXなどの刺激的な映像だけでは達成できない。そこで必要とされるのが、類を見ないストーリーテリングの巧みさであり、登場するキャラクターの人物描写の深さだったりする。この点では、まさに映画が映画たりえるのに必要な要素が、いまTVシリーズでも要求されているのだ。そこで、そんな要素が見事にTVシリーズの枠を越えて実を結んだ2つのシリーズを紹介したい。

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まず1つ目はネットフリックスが制作した『シェフのテーブル』だ。世界のトップレストランで腕を振るうシェフ6人が1エピソードごとに登場して、食に対する哲学や、シェフとしての取り組み方、さらに自身の人生を語る6エピソード完結のドキュメンタリー・シリーズだ。『二郎は鮨の夢を見る』が高く評価されたデイビッド・ゲルブが監修/総指揮しており、1エピソードことに深く掘り下げられる一流シェフ達の人物像が、美しい映像美で綴られており、いわゆる従来のフード物のドキュメンタリーやTVシリーズとは一線を画している。ここまでしつこくネットフリックスのことをかき立てると宣伝マンかと思われるかもしれないが、このオリジナルシリーズは素晴らしい出来である。

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2つ目に紹介したいのは、ストーリーテリングの巧みな技術で、筆者が完全にハマってしまった米SHOWTIMEが制作した『ホームランド』だ。『24 』の仕掛人ハワード・ゴードンとアレックス・ガンザが取り組んだ、実話ベースと錯覚するぐらいのリアルなスリルと臨場感にあふれる一筋縄ではいかないスパイ・ドラマである。まず主演の2人、CIAの凄腕分析官を演じるクレア・デインズと、アフガニスタンで8年間の捕虜生活を経て帰国する米兵士を演じるダミアン・ルイスの演技が素晴らしい。テロ自爆容疑をかけられた兵士と、尋問するCIA分析官が一騎打ちするシーズン2の名場面は、視聴者をドギマギさせるぐらいの緊迫感とエモーションに満ち溢れていて圧倒的な迫力。CIAがテロリストと同様に極悪非道な方法で情報を掴んでいく様が描かれており、複雑に入り組んだ世界情勢を背景に、道徳観や善悪の区別がなくなっていく感覚を醸し出すのに見事に成功している。まさに神業的な巧さと圧倒的な情報量で、いままで映画では不可能だったストーリーテリングが、ここで見事に完成されている。

ビジネスとしての映像配信に大きな変化が起こっている中、フィルムメーカーの視点から検証しても、欧米のTV/ネット界がいま非常にエキサイティングな場として認められているのは間違いない。次回、最終回ではいままでのTVシリーズの限界を試している作品を紹介する。

 

 

いまTV/ネットに才能が集結 その2

前回に引き続き、筆者の独断と偏見で選んだ映画以上の面白さ抜群のTVシリーズを今回も紹介したいのだが、その前に、なぜアメリカでいまTVに映画界の才能が集結しているのか、もう少し話したい。

先日『ジム・キャリーはMR.ダマー』や『メアリーに首ったけ』の監督ボビー・ファレリーに会う機会があった。20年ぶりの続編『帰ってきたMr.ダマー バカMAX!』を引っさげての来日だったが、近年コメディ映画に投資が集まりにくい状況を残念そうに語った。その理由は、ハリウッドが世界マーケットを意識するようになり、文化の違いによって伝わりにくいコメディよりも、解りやすいアクションやスーパーヒーロー物に食いつく傾向にあるからだった。カルト化しているジム・キャリー主演作品の続編でさえ、低予算にも関わらず投資が集まるまで4年かかり、一部アジアからの投資も募ったとファレリー監督。ますます一極化していくメジャーの中で、第一線で活躍する監督達でさえ、自らの才能を発揮できる方法を模索しなければいけないのだ。そんな状況が、映画界の才能が続々とTVに集結している理由の1つでもある。

『ピアノレッスン』のジェーン・カンピオンが監修したシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク 消えた少女』や、『エデンより彼方に』のトッド・ヘインズが手がけたシリーズ『ミルドレッド・ピアース』など、映画監督が手がけたTVシリーズの中で最も出色なのが、挑戦的なシリーズや作品を発表し続けるHBOが製作し、『闇の列車、光の旅』で鮮烈なデビューを飾ったケアリー・フクナガが監督したTVシリーズ『TRUE DETECTIVE/二人の刑事』だ。泥臭いルイジアナを舞台に、連続殺人鬼を追う2人の刑事の人間関係が描かれる。政治システムに群がる人間模様が万華鏡のように描かれるシリーズ『ハウス・オブ・カード』とは違い、反撥し合う偏屈な男2人の関係が、見えない連続殺人鬼によって次第に翻弄されていく様子に焦点があてられる。TVシリーズとしては、亀のようなテンポで進んでいくが、過去と現在が巧みに交差する構成の脚本と、主演2人マシュー・マコノヒーとウディ・ハレルソンの素晴らしいほど繊細な演技、南部のミステリアスな雰囲気や独特の音楽もうまく取り込んで、一気に見せてくれる。最後のエピソードで、20年越しにようやく信頼関係が結ばれるまでになる2人の人間関係が映画では味わったことがないぐらいリアルだ。シリーズ特有の時間的制約のない点を見事に活かして新しい感動を与えてくれる。

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『TRUE DETECTIVE』は1シーズン完結型シリーズで、日本ではスターチャンネルでオンエアー中。さらに、アメリカでは、キャストと監督を総替えした形でシーズン2がすでに放映されており、コリン・ファレル、レイチェル・マクアダムス、ヴィンス・ボーン、テイラー・キッチュという豪華キャストだが、評判はあまり芳しくなかったようだ。シーズン2に共通しているのは原案・脚本を担当したニック・ピゾラット。『TRUE DETECTIVE』で一気に注目される脚本家となった彼は、『荒野の7人』のリメイク版の脚本を担当している。

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そういう意味で、近年のTVシリーズは才能のある脚本家を次々に輩出していく場としても大いに注目されており、脚本家がエグセクティブ・プロデューサーやクリエイターとしてクレジットされる場合も多い。また拘束時間が長期間に渡ることも理由であろうが、『ハウス・オブ・カード』や『TRUE DETECTIVE』しかり、主演俳優がエグセクティブ・プロデューサーとしてクレジットされることもあるようだ。それだけ俳優陣も企画に惚れ込んでTVシリーズに参加しているということであろう。

いまTV/ネットに才能が集結 その1

また1年半、ブログをさぼってしまった。それはさておおき、ネットフリックスが今年の夏、日本に上陸した。いままでネット配信に関して懐疑的だった日本映画業界も、遂に本格的な動きを見せるようになった。競うように昨日アマゾンが日本で見放題のサービスを開始し、HULUやGYAOがTVコマーシャルでネット見放題サービスを盛んに宣伝し始めた。そこでいま最も問われるのが、配信される映像コンテンツのクオリティだ。

ハリウッドが、さらなる収益を求めて世界マーケットで通用する大掛かりなアクション物や、固定ファンがいるシリーズ/続編物、解りやすいスーパーヒーロー物ばかりに予算を注ぎ込む中、欧米ではネットフリックスを筆頭としたTV/ネット配信会社が、よりクオリティの高い映像コンテンツを求めて、内容的にも経済的にもリスクの高い映画や、野心的なTVシリーズを多く製作するようになった。この一連の映画ビジネスの動きの中で、フィルムメーカーにとって最も注目すべきなのは、いままでは映画に劣るとされていたTVシリーズが、新しいストーリーテリングの手法として注目を集めていること。そんな中でも筆者の独断と偏見で選んだ映画以上の面白さを与えてくれるTVシリーズを幾つか紹介したい。

その最たる成功例が、ネットフリックスが製作した『ハウス・オブ・カード〜野望の階段』だ。ハリウッド映像作家として最も注目を集めるデイビッド・フィンチャーが総合プロデュースを手がけたことで話題になったが、元々は90年代にイギリスで制作されたTVシリーズのリメイク。このシリーズの評価が高いのは、時間制限のある映画では描くのが不可能である人間模様や、複雑な政治の駆け引きが、様々な登場人物を通して巧みに描かれている点にある。さらに秀逸なのが、映画とは違ってじっくりと時間をかけて登場人物を描いている点だ。ケビン・スペイシー演じる主人公フランシス・アンダーウッドは、持ち前のサバイバル本能で政界を生き抜いてきた人物で、野心の為には殺人さえも厭わない悪人である。そんな悪人が時々カメラに向かって、彼なりの人生哲学と生き残るための方法論を語ると、観客は彼が悪人であることをついつい忘れて肩入れしてしまう。人間性の中に善悪が混在していることを思い知らされる作り方になっている。

上記クリックすると予告篇に 

現在シーズン4まで製作されており、シーズン2までは日本でもDVD化もされているので未見の方はぜひレンタル屋、いや、ネット配信かオンデマンドでぜひ観て欲しい。中毒性の高いコンテンツなので翌日お仕事のある方は、気をつけて下さい。

クールジャパンとバンクシーの憂慮

いつ頃から<クールジャパン>たる名称が生まれたのだろう? 英語版のウィキペディアによると、 2002年にアメリカの政治雑誌に掲載された Japan’s Gross National Cool(国民総生産=Gross National Productをもじって国民総クール)という記事が発端とある。かつては経済界のスーパーパワーとして君臨した日本経済が急激に落ち込み、社会構造に対する不信と相重なって生まれたのが日本のソフトパワーで、文化的影響においてスーパーパワーになりつつあるという内容の記事らしい。そして同時期のポケモンの爆発的人気を指して、日本の政治家がクールジャパンと呼び始めたのがきっかけだそうな。2012年だけで400億円の予算を注ぎ込んで日本文化の海外促進を計る政府政策。一瞬、聞こえはいいが、経済効果を目的として文化を海外促進するには矛盾があるのではないか? 文化の商品化が行き着く終焉は? 

そんなテーマをずばり描いているのがストリート・アート界の風雲児バンクシーによるドキュメンタリー映画『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』だ。<ギフトショップを通って出口へ>という皮肉なタイトルは、まさにアートの商品化を指している。ストリート・アートが世界的に注目されつつあった90年代前半から、偶然のきっかけで、様々なストリート・アーティストの活動をビデオで撮り続けていたフランス人のティエリー・グエッタが、撮影を通じて友人となったバンクシーのアドバイスに刺激を受けて、自ら作品を創るようになり(とはいえ他のアーティストのスタイルを見よう見まねで作り上げた作品ばかりなのだが)、周囲の懐疑的な眼差しを浴びつつも、商業主義とそれを煽動するメディアの後押しも手伝って、一躍脚光を浴びて大成功を収めるまでのストーリーが、皮肉とユーモアたっぷりに綴られている。


映画のラスト近く、すっかり幻滅して落胆した様子のバンクシーは語る。「結局アートなんて単なるジョークに過ぎないのかもしれない。」 情熱的なファンに過ぎなかったグエッタが、いわゆる<コピペ>を駆使して一躍大人気となり、MR.ブレインウォッシュ(洗脳)と自らを名付けストリート・アート界に君臨するまでになったサクセス・ストーリーに、なにか学ぶべきレッスンはあるのか? 現代社会が如何に表面的で中身のないものを、メディアの煽動と宣伝によって、易々と受け入れてしまう性質があることを、映画は明確に描いていく。そして誰が価値あるもの、ないものを判断するのか、<本物>とは何か、そんな疑問を投げかける作品だが、答えはみつからない。混沌とした現代社会を鏡のように映し出すだけだ。「以前は誰にでもアートを創るように進めていたけど、もうやめることにしたんだ」とバンクシーが語って映画は終わる。

クールジャパン政策では、商業性あるものが輸出されるべき文化としての認識されているようだ。クールジャパン推進会議に秋元泰氏が起用されるぐらいである。数年前、 経済産業省が主催したコンテンツマーケットのパーティで、クールジャパンを担うカルチャーを代表して乃木坂48が紹介された。口パクでミニスカを履いて下半身を揺らせながら、元気いっぱいに踊る少女達を、外人ゲストが唖然として見ていた様子が忘れられない。いつの間に日本を代表する文化がこうなってしまったのかは解らない。やはりバンクシーが言うように、文化やアートは単なるジョークなんだろうか?